2010年12月10日金曜日

2010/12/9_10 【番外・出張編】岡山

(↑いつもどおりに1投稿毎に下から上に読み進ん でください。)

この「季節料理いまむら」での食事を今回の岡山での一番のお土産として、17:46ののぞみ46号で岡山を後にしました。駅弁を買って乗車したけれど、遅い時刻の昼食であったせいもあるのだろうけど、「めばるのから揚げ定食」の余韻が消えないまま20:33に東京着。結局駅弁は自宅まで持ち帰って食べることになりました。

絶品であった。しかも実際にはイラストよりも品数が多く、上記以外に魚の煮付けが一鉢と小皿のお新香が付いていた。から揚げを揚げている間に、先に魚の煮付けの小鉢と水菜と揚げの煮びたしの小鉢と ご飯が出てきた。食べだしてみると魚の煮付けのあまりの旨さに、ビールを頼まずにはいられませんでした。ビールを飲みながら待っていると“じゅうじゅう”音をたてな がらめばるのから揚げが出てきました。尾びれ、背びれ、胸びれは言うに及ばず、骨に至るまでが絶妙の揚がり具合である。硬さの異なるこれらの部位をどうやって全て食べごろにしているのだろう。途中で出された熱々のかす汁もまた、ほっとする、なんともいえない風合いであった。こんな子供のようなイラストにするのは申し訳ない感じである。
時間的にはかなり遅めの昼飯は中山下にある「季節料理いまむら」という店に入ってみた。昼飯の店という感じではない。少し奥行きの広いカウンターとカウンターの背中側に4席ほどの小上がりの座敷がある。夜に美味しいお酒と魚とおでんを食べる店という感じである。店の中にはカウンターの中に親父さん。カウンター席には客とも、知人ともつかない女性が一人、定食の魚の骨をとりとり食べながら親父さんと話していた。途中親父さんの娘とおぼしき女性がカウンタの中へ。さらに食材店の御用聞きと思われるお兄ちゃんが少し話していった。空いているカウンターの席に座り「めばるのから揚げ定食」を頼んだ。
車も入れぬほどの路地の奥にお洒落なオブジェがあった。国吉康雄(画家)の生誕地であった。牛のオブジェは金谷哲郎(造形作家)の作である。
後楽園を出て鶴見橋を渡り、城下の出石(いずし)町の古い町並みを歩いた。橋の袂にはかわいい風向計のオブジェがあった。
園内に聳え立つ見事な木立。
園内にあった巨大な岩。その説明立札と両方を写真でそうぞ。
旭川を岡山城側から月見橋で渡ると、日本三名園のひとつ「岡山後楽園」である。後楽園は江戸時代に岡山藩主池田綱政公が造ったものである。
前の晩に見たライトアップした様子とは違う岡山城。城の壁面の色が黒いことから烏城(うじょう:からすじょう)または金烏城(きんうじょう)とも呼ばれている。美しい城である。
片方の系の終点東山には玉井宮東照宮があり、宮の裏手から連なる操山(みさおやま)にはその昔、虫取りのために登り、駆けまわっていた記憶がある。
岡山市内には路面電車が岡山駅-清輝橋と岡山駅-東山の二系統走っている。40年前に岡山から引っ越す時には私も東山から岡山駅まで乗った記憶がある。
翌朝、早起きして市内を散策することにした。歩いていて、ふと足元を見るとマンホールの蓋に桃太郎の絵が描かれている。そういえば岡山は白桃の産地であり、桃太郎伝説の地でもあり、定番土産はきび団子なのであった。
お腹も満足したところで城下町らしい屋敷や旧家の続く街中を歩いていると、これも40年前と変わらぬ緑色のライトアップで夜空に浮かぶ岡山城に遭遇した。ひと廻りしてこの日は宿に帰った。
「とりそば」といっても鶏がらだしのラーメンで、チャーシューではなく煮鶏がのせられて、私はしょうゆ味でゆで卵ものっている「とり玉そば」を食べたのですが、しっかりとした味のとても美味しいラーメンでした。大食いの人には量的に物足りないかもしれませんが、「とりそば」は650円とリーズナブルなので、「とりご飯」等のサイドメニューと一緒に頼むと良いかもしれません。
仕事が終わって同行者達は帰京。一人でホテルにチェックインして一休みした後、夕飯を兼ねて周辺を散歩してみました。夕飯は、路面電車の岡山電軌が走る通り沿い、日本銀行岡山支店と中国銀行本店の向かい側にある「とりそば太田」という店に入りました。岡山のラーメン店をWeb上で検索すると頻出してくる、かなり有名なお店のようです。
で、岡山で仕事が終わってからの報告です。実は40年ほど前に岡山市に住んでいたことがあり、市内を流れる旭川とそのほとりに建つ岡山県庁は当時と変わらぬ懐かしい姿でした。
【番外・出張編】の第二弾は岡山です。出張は、12/8(水)朝7:48MAXとき307号で東京を発ち、9:51に新潟駅着。お昼を挟んでお客様と打合せ。17:05新潟空港発JAL2248便で大阪伊丹空港へ。大阪では曽根崎町のお初天神近くで同行者達と“ふぐ”を食し、リーガロイヤルホテルへ一泊。12/9(木)朝は7:58新大阪発のぞみ97号で8:43岡山着。16:00頃までお客様と打合せ、19:00頃まで同行者達とラップアップミーティングでお仕事終了。とても忙しい日程でした。行程中、新潟から大阪まで乗った飛行機はエンブラエル170という全長30m弱の客席が左右2列ずつの小型旅客機でした。今を去ること40年くらい前にはYS11というプロペラ機にも乗ったことがあるけれど、久しぶりの小型機で乗る前は少しドキドキでした。飛んでしまえば座席は大型機のエコノミーより広いような気もしたし、快適なフライトでした。     
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2010年11月3日水曜日

2010/11/03 【番外・出張編】北海道

(↑いつもどおりに1投稿毎に下から上に読み進ん でください。)

夜はジンギスカン鍋と毛がにというめちゃくちゃな取り合わせでたらふく食して、さらには甲羅酒と生ビールをがぶがぶ飲んで、中島公園横のノボテル札幌でぐっすりと眠ったのであった。えっ!?仕事は?って、4日・5日とちゃんとやって帰りましたよ。本当に。
キャンパスではクラーク博士の銅像や有名なポプラ並木も迎えてくれました。北大のクラーク博士像というと立ち姿で地平を指差す姿を思い浮かべがちであるが、あの銅像は羊ケ丘にあるものであり、北大キャンパスにあるのはこちらの胸像である。羊ケ丘の物の方が「少年よ、大使を抱け!」の言葉に相応しい姿をしているのでよく紹介されているので、よく勘違いされるのである。
キャンパスの紅葉もきれいでした!
小樽を出て翌日からの仕事場所である札幌へと戻ったが、夕飯にはまだ時間が余りそうであったので、北海道大学のキャンパスへ寄り道してもらった。キャンパスでは北海道らしい白樺の木がレンガの校舎に映えている。
小樽は、今はあまり近海には来なくなった鰊(ニシン)の漁や北海道の海山の産物を本州へ搬出する北前船の港として栄え、その後1960年代まではロシア貿易や北海道の炭鉱で産出する石炭の搬出の港として賑わっていたが、石炭需要の低下と北海道内の炭鉱の閉山、ロシア貿易の衰退等でピークは20万人程あった人口も13万人強程度になっているそうである。今は港が栄えた頃の運河沿いにあった倉庫を博物館、お土産店、飲食店等に改造して、運河の風情を残した観光都市と札幌のベッドタウンへと変貌しようとしているようである。そこからは、すぐ道央自動車道に入り札幌を通り過ぎて小樽へ行くことにした。小樽へ向かう途中、雪ウサギと遭遇。すぐ後ろにはキタキツネがそのウサギを狙っています。というのは冗談で、これは小樽市博物館にあった剥製です。すみません。
空港からすぐ近くにあるというので、「千歳サケのふるさと館」というところへ行った。写真のような水車についているカゴで川を遡上するサケを掬いとって捕獲するのである。当日は数分に一匹くらいがバシャバシャ音を立てて捕獲される程度であったが、多い日には水車の横の台の上でビチビチ、バタバタ大変なくらいだそうである。是非そんなところに遭遇してみたいものである。
北海道は雨模様。でも、11月初旬で紅葉の盛りは過ぎていたとはいえ、写真のようなきれいな紅葉が見れました。千歳空港への着陸時に雨雲をくぐって地上が見えたのですが、本当は機上で見たその紅葉が一番きれいでした。まるで油絵で絨毯の模様を描いたように見事でした。お見せできないのが残念。空港へは札幌在住の後輩が車(X-TRAIL)で迎えに来てくれて、東京から同行した後輩も含めて3人で、そのまま半日ドライブとなりました。札幌の後輩H、Thank youでした!
スカイラインで駆けたわけではないのでUpするかどうか長いこと迷っていましたが、Upすることにしました。11/3(水)文化の日、4日からの仕事に備えてボーイング777で北海道へ飛び、前泊しました。当日の東京は快晴。ボーイング777の後方にきれいに富士山が見えています(写真をクリックして拡大画像で見てください)。
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スカイラインで駆けて行ったわけではなく、出張でちょっと行ってきた記録を二つ続けます。とりあえず、その第一弾を番外・出張編としてUpしました。

2010年10月17日日曜日

2010/10/16-17 袋田の滝&偕楽園

(↑いつもどおりに1投稿毎に下から上に読み進ん でください。)偕楽園を後にして、北関東自動車道の水戸南ICから高速に入り一路東京三鷹まで。約2時間。今回はいつもより少したくさんの人を載せて駆けたV36Skyline 370GT Type-Sだったけど、いつもどおりの快適なドライブでした。
庭の休憩処と赤く色づいた樹々。
楼から眺めると、広い芝生と満開の秋桜が見えた。
急な階段を登ると楽寿楼。床の間の脇には丸い富士見窓。枠は漆塗りであった。
奥殿と茶室を結ぶ小室への奥殿側出入り口の華燈口。
萱葺の屋根と庭園も樹木の佇まいも見事である。
                          桜の間
                          萩の間                         
                          梅の間
                          竹の間
                          松の間
                          紅葉の間
                          つつじの間
                           桃の間
                            菊の間
好文亭は徳川斉昭によって1840年代に建てられたが、1945年(昭和20年)に戦災で消失。1958年に一度再建された。1969年に落雷で再消失。1972年に再再建されたのが現在の建物である。しかし、各部屋を彩る襖絵は今も見事である。うち何枚かをどうぞ。
偕楽園はあまりに広いため、今回は好文亭に絞って見学することにした。水戸「偕楽園」は岡山「後楽園」、金沢「兼六園」と並ぶ日本三公園のひとつである。今回は日本三名瀑に続き日本三○○に縁がある。好文亭の名前の由来は、偕楽園に多く植えられている梅の木のことを好文木(こうぶんぼく)ということによるらしい。梅の木を何故好文木と呼ぶかは晋の国の故事に因んでいるそうだ。興味ある方は調べてみてください。
17日は国道118号を戻り、常磐自動車道をくぐって通り過ぎ、偕楽園へ駆ける予定だ。宿の仲居さんの見送りで出発した。おっと、仲居さんが涙で見送ってる?いや、勘違いでした。
部屋の中はアンティーク調家具で落ち着いた雰囲気で、露天風呂付き。ちょっと贅沢してしまった。露天風呂が二種類あるのは4人で二部屋とったから。
宿泊は袋田温泉「思い出浪漫館」。http://www.roman-kan.jp/
部屋から見ると、こちらも淡い秋色に色づいた木々と、渓流沿いには露天風呂の目隠しの簾なんともいえない風情を醸しだしている。
だが、滝へ向かう久慈川の支流、滝川沿いの方はほんのり色づき始めており、それなりに美しい紅葉であった。
四季の中でも秋の紅葉が美しいことは特に有名であるが、今回は滝周辺の紅葉には少し早かったようである。
袋田の滝は「四度の滝」とも呼ばれている。そう呼ばれている理由には二つの説がある。流れが4段になって落ちる様子からという説と、四季に一度ずつ、4回来て眺めてみないとこの滝の良さがわからないからという説だそうだ。4段になって落ちる様子は、上の写真でわかるだろうか。
袋田の滝は「華厳の滝」「那智の滝」と並び日本三名瀑(にほんさんめいばく)のひとつとされている。駐車場から土産物屋の並ぶ通りを抜け、観瀑台(かんばくだい)までの有料のトンネルを抜けると、そこには想像以上の迫力で滝が目前に迫ってきた。
10/16から一泊で袋田の滝へ行き、17日の帰りには水戸「偕楽園」によって帰った。今回は東京都三鷹市をスタートし、高井戸ICから首都高速4号新宿線に入り、西新宿JCTからは初めての首都高速中央環状線の長いトンネル(通称山手トンネル)を西池袋方面へ駆けた。この道路は今年の3月に東名から中央高速、東北道、常磐道に至るまでを結ぶ環状線として開通した。板橋JCT、江北JCT、小菅JCTを通り、首都高速6号三郷線を経て、常磐自動車道へ抜けるルートを使ったのであるが、土曜日の午前中という渋滞しても良さそうな時間帯であるにも関わらず順調に駆けることができ、この道路は首都圏交通の混雑緩和には大いに役立っていると思われた。常磐道は那珂ICで降り、久慈川と絡み合うように抱こうして走る国道118号で袋田まで行き、国道461号を右折、宿泊する「袋田温泉 思い出浪漫館」から県道324号を通り袋田の滝へ到着した。
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